3分で分かるマティスの生涯

アンリ・マティスは1869年に北フランスのル・カトー・カンブレジという町で生まれました。幼い頃は全く絵に興味がなく、18歳の時にお父さんの希望に従ってパリ大学の法学部に入学します。

21歳のときに盲腸炎をこじらせて1年間入院したときにお母さんにもらった絵具で描き始めたのが画家の道を歩むきっかけになりました。こときの気持ちをマティスはこんな風に語っています。
「生まれて初めて自由で平和な世界へ行ったようだった。まるで天国を見たようだった」

23歳になるとマティスは本格的に絵の勉強を始めます。そして27歳のとき展覧会に出した「読書する女」(1895年)がサロンに入賞してフランスの国に買い上げられました。
これは若い画家マティスにとって大きな名誉でした。

読書する女

29歳で結婚したとき、マティスは画家として歩き始めたばかりで暮らしは貧しいものでした。妻のアメリーが帽子の店を開いて生活を支えていました。
そんなある日、マティスは1枚の絵に出合いました。セザンヌの「水浴する3人の女たち」です。
「僕」もこんな絵を描きたい。この絵を自分のアトリエにおいていつも眺めていたい」
マティスの気持ちを知ったアメリーは自分の結婚指輪を売り、そのお金をマティスに渡してその絵を買うように勧めました。マティスはこの絵をまるでお守りのようにずっと大切に持っていました。そして、アメリーの愛情と期待に応えようとますます一生懸命に絵を描き続けたのです。

マティスはセザンヌのほかにもゴッホ、ゴーギャン、ピサロ、シニャックなど多くの画家達から影響を受けながら自分にしか描けない絵を描こうと努力を重ね、1905年の秋、パリで行われた展覧会にアメリーをモデルにした「帽子の女」「緑のすじのある女」などを出しました。鮮やかな色使いと荒々しいほどの力強いタッチで描かれたこれらの絵は当時の人々を驚かせました。これ以降、マティスたちは「野獣派(フォービズム)」と呼ばれるようになりました。

帽子の女

しかし、「芸術は人に安らぎと幸せを与えるためにあるのだ」と考えていたマティスは色の調和を大切にした絵を描き始めます。やがてマティスの絵は多くの人々に愛されるようになり、画商たちはマティスの絵を競って買うようになりました。

その後、2回の世界大戦に翻弄されながらも、マティスは絵を描き続けました。
「私は画家になってからこれまで一時も絵を描くことを止めたことはありません。9時から12時まで絵を描き、お昼ご飯を貯めたら日が暮れるまで描き続けます。勿論日曜日にも描くんです。」

1941年、72歳の時に腸の病気で手術を受け、車椅子で生活をしなくてはならなくなったマティスは74歳のころから南フランスのヴァンスで暮らすようになります。そして、家の中にいても描ける果物や花、室内の様子などが絵の新しいテーマになりました。

78歳になると切り紙絵を始めます。紙をハサミで切って、そこに明るい色をぬり、それを壁や紙に貼り付けたのです。そして84歳で亡くなるまで不自由な身体で人々に夢と希望を与える切り紙絵を作り続けました。マティスが亡くなったことを知ったピカソは「僕が彼の仕事を引き継ぐ」と言ったそうです。

ブルー・ヌードⅡ

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