3分で分かるスーラの生涯

ジョルジュ・ピエール・スーラは1859年、パリに生まれます。裕福な家でしたが、お父さんはパリ郊外の別荘に引きこもり、子ども達と遊んだり話たりすることはめったにありませんでした。お父さんの無口で内気な性格を受け継いだスーラも心を開いて人と話すことは殆どありませんでした。

19歳の時にパリの美術学校に入り、翌年の春に展覧会で初めてモネやドガなど印象派の絵画を観て強く心を打たれたスーラは古い描き方ばかり教える学校をやめ、一人でひたすら絵を描いて過ごしました。そして印象派の色使いを取り入れながらさらに新しい描き方を考え出します。それは絵具を混ぜ合わせず、小さな色の点をカンバスに並べて描く方法でした。後に点描画法と呼ばれるようになる画法です。24才の時には1年かけて大作「アニエールの水浴」を描き上げています。

アニエールの水浴

「アニエールの水浴」は1884年のサロンに落選してしまいますが、この年に若い画家達が集まって開いた独立展(アンデパンダント展)に出品することができました。この会の仲間達はサロンからの独立を目指していたのです。生涯の友となったポール・シニャックと出合ったのもこの時でした。

続いて取りかかったのが新しい油絵の大作「グランドジャット島の日曜日の午後」(1884~1886年)をピサロの強い勧めで1886年に開かれた最後の印象派展に出品すると、パリの芸術家達の間で話題の中心となりました。

有名になったスーラのアトリエには多くの画家がやってくるようになりました。その中にはドガ、ゴーギャン、ゴッホなどもいました。ところが、自分の画法を真似されることをとても嫌がったスーラは人々を避け、セーヌ川やノルマンディーの海岸で自然の風景や波止場、灯台などを描いて過ごしました。やがて夜の街に繰り広げられるショーや見世物にも興味を惹かれ、サーカスやナイトクラブの賑やかで動きのある絵を描き始めます。


シャユ踊り

30歳の頃、スーラはマドレーヌ・ノブロックという女性に恋をし、一緒に暮らし始めます。マドレーヌのことは「化粧する若い女」という絵にも描いています。1890年には息子、ピエールも生まれます。しかし、マドレーヌやピエールと過ごした静かな日々は突然、終わりを告げることになります。1891年3月、スーラはジフテリアに罹り、31歳の若さで夭折してしまったのです。

マドレーヌと1歳になったばかりのピエールを家族に引き合わせたのは死の2日前のことでした。
人付き合いを避けていたスーラらしいエピソードです。スーラの死から2週間後、幼いピエールも同じ病気で亡くなり、マドレーヌはどこかに姿を消しました。その後の彼女の行方を知る人はいません。

化粧する若い女
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