3分で分かるスーラの生涯

ジョルジュ・スーラは、わずか31年の短い生涯の中で、西洋絵画の流れを大きく変えた画家です。「点で描く画家」として知られますが、その本質は「理論で絵を構築した画家」でした。のちに「点描画法」と呼ばれるこの表現は、印象派のあとに続く新しい時代を切り開きました。
この記事では、スーラがどのようにして新しい絵画表現を生み出し、なぜ今も高く評価されているのかを、わかりやすく紹介します。

静かな少年時代と印象派との出会い

スーラは1859年、パリに生まれます。裕福な家でしたが、お父さんはパリ郊外の別荘に引きこもり、子ども達と遊んだり話たりすることはめったにありませんでした。お父さんの無口で内気な性格を受け継いだスーラも心を開いて人と話すことは殆どありませんでした。

19歳の時にパリの美術学校に入り、翌年の春に展覧会で初めてモネやドガなど印象派の絵画を観て強く心を打たれたスーラは古い描き方ばかり教える学校をやめ、一人でひたすら絵を描いて過ごしました。印象派の明るい色彩や光の表現に学びながらも、ただ感覚的に描くだけではなく、もっと理論的で新しい方法はないかと考え続けたのです。

点描画法を生み出す

そして印象派の色使いを取り入れながらさらに新しい描き方を考え出します。それは絵具を混ぜ合わせず、小さな色の点をカンバスに並べて描く方法でした。後に点描画法と呼ばれるようになる画法です。24才の時には1年かけて大作「アニエールの水浴」を描き上げています。

「アニエールの水浴」は1884年のサロンに落選してしまいますが、この年に若い画家達が集まって開いた独立展(アンデパンダント展)に出品することができました。この会の仲間達はサロンからの独立を目指していたのです。生涯の友となったポール・シニャックと出合ったのもこの時でした。

アニエールの水浴

『グランド・ジャット島の日曜日の午後』で評価を確立

続いて取りかかったのが新しい油絵の大作「グランドジャット島の日曜日の午後」(1884~1886年)をピサロの強い勧めで1886年に開かれた最後の印象派展に出品すると、パリの芸術家達の間で話題の中心となりました。

整然と並ぶ人物、静かに張りつめた空気、そして無数の色点による画面は、それまでの印象派とはまったく異なるものでした。スーラはここで、「印象派の後継」ではなく、新しい絵画を生み出した画家として認識されるようになります。

有名になったスーラのアトリエには多くの画家がやってくるようになりました。その中にはドガ、ゴーギャン、ゴッホなどもいました。ところが、自分の画法を真似されることをとても嫌がったスーラは人々を避け、セーヌ川やノルマンディーの海岸で自然の風景や波止場、灯台などを描いて過ごしました。

やがて夜の街に繰り広げられるショーや見世物にも興味を惹かれ、サーカスやナイトクラブの賑やかで動きのある絵を描き始めます。


シャユ踊り

短すぎた晩年

30歳の頃、スーラはマドレーヌ・ノブロックという女性に恋をし、一緒に暮らし始めます。1890年には息子、ピエールも生まれます。しかし、マドレーヌやピエールと過ごした静かな日々は突然、終わりを告げることになります。1891年3月、スーラはジフテリアに罹り、31歳の若さで夭折してしまったのです。マドレーヌと1歳になったばかりのピエールを家族に引き合わせたのは死の2日前のことでした。人付き合いを避けていたスーラらしいエピソードです。

あまりにも早い死でしたが、その短い生涯の中で築かれた業績は、後の美術に大きな影響を与えることになります。
印象派が一瞬の光や空気をとらえようとしたのに対し、スーラはその成果を受け継ぎながら、もっと秩序だった画面を築こうと理論で絵を構築しようとしたのです。その姿勢は、20世紀美術にもつながっていきました。

このためスーラは、近代絵画を「感覚」から「理論」へと進めた転換点となる画家として、現在も高く評価されています。

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