3分で分かるセザンヌの生涯

ポール・セザンヌは南仏プロヴァンス地方のエクスという町に1839年に生まれました。少年時代から勉強家で成績も良かったのですが、将来は画家になりたいと心を決めていました。ところが、銀行を経営するお父さんはセザンヌが画家になることに大反対でした。何度も何度も話し合い、やっとのことで画家になることを許されます。

22歳のとき、希望に胸を膨らませてパリに出たセザンヌはピサロ、モネ、ルノワール、ドガ達に出会います。1874年に彼らが開いた第1回印象派展にセザンヌも出品しますが、セザンヌの絵は人々から笑われてしまいます。3年後の印象派展でも結果は同じでした。がっかりしたセザンヌはそれから約20年もの間、展覧会に絵を出しませんでした。生まれ故郷のエクスに戻り、アトリエから見えるサント・ヴィクトワール山や周りの風景を繰り返し描きました。

サント・ヴィクトワールとシャトー・ノワール

40歳を過ぎた頃からセザンヌはリンゴやオレンジの絵を描き始めます。セザンヌは長い時間をかけて満足するまでリンゴやオレンジを書きました。一つの作品に何年もの時間を費やすこともありました。あるときセザンヌはこう言ったそうです。
「今にりんごひとつでパリ中をあっと言わせてみせる」

しかし、世の中の人たちは相変わらずセザンヌの絵を認めようとしませんでした。そんなセザンヌにやっと画家としての成功が訪れます。きっかけは1895年、56歳のときにパリで開いた始めての個展でした。「赤いチョッキの少年」をはじめとする150点あまりのセザンヌの絵は多くの人々の目を奪いました。

右腕が異常に長い画面構成は西洋美術史に置いて革命的なものでした。印象派の画家として出発したセザンヌでしたが、この頃にはもう、セザンヌの絵は印象派という枠を超えて、もっと大きな舞台へと羽ばたいていたのです。

赤いチョッキの少年

セザンヌが描いた絵は若い画家たちの心を大きく揺さぶりました。若い画学生だったマティスは「水浴する3人の女たち」を買って、40年近くこの絵を大切に持っていました。マティスは「この絵はいつも私の心の支えになりました」と語っています。

1900年、61才になったセザンヌの絵はパリの万国博覧会にも出品され、フランス以外の国でも認められ始めます。1906年には7年前から取り組んでいた「大水浴」を完成させます。この絵はピカソにも大きな影響を与え「アヴィニョンの娘たち」という絵を描くきっかけにもなっています。

ところが、この年の10月にセザンヌは肺炎で亡くなってしまいます。67歳でした。お墓はセザンヌが繰り返し描いたサント・ヴィクトワール山の眺められる生まれ故郷のエクスに作られました。翌年、パリでセザンヌの絵を集めた大きな展覧会が開かれ、人々はセザンヌの絵の素晴らしさに改めて気づきました。セザンヌは今では20世紀美術の父とも呼ばれています。

水浴する3人の女たち
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