3分で分かるモネの生涯

モネ(Claude Monet)は、印象派を代表する画家であり、「光」を描いた画家として知られています。時間や天気によって変わる光の美しさをそのまま表現しようとしたことが、印象派の誕生につながりました。モネは、それまでの「形を正確に描く絵画」から、「光や空気を感じる絵画」へと大きく流れを変えた画家でした。
この記事では、モネの生涯を3分でわかるように簡単に解説します。

幼少期から画家を目指すまで

クロード・モネは1840年、パリに生まれますが、5歳のときにル・アーブルという海のそばにある町に引っ越します。絵が好きだったモネはこの町で風景画家ブータンと出会います。アトリエでの制作が当たり前だった時代に「外光派」として活躍していたブータンは、モネを戸外での制作に連れ出しました。明るく降り注ぐ光と、光を受けて輝く風景を目にしたモネは「この光を描ける画家になろう」と決意します。「光の画家モネ」の誕生です。

ルノワールとの出会いと印象派の誕生

ルノワールとの出会い

18才のときに本格的に絵の勉強をするためにパリに行き、沢山の友人に出会います。ルノワールとは特に仲が良く、セーヌ河畔の新興行楽地ラ・グルヌイエールを同じような構図で描いた作品では「色彩分割法」という印象派を象徴する画法を生み出しています。

苦しい生活の中で懸命に絵を描き続けるモネを見守る一人の女性がいました。それはカミーユです。
30歳のときにカミーユと結婚したモネはパリ郊外にマネの紹介で家を借り、幸せな日々を送ります。
仲間達の援助もあり、経済的にも落ち着き始めたモネの生活は1873年の世界恐慌で一変します。

印象派の誕生

モネは保守化したサロンの代わりに自分達でグループ展を開催することを決意し、参加者集めに奔走します。ルノワール、シスレー、ピサロ、セザンヌ、ドガなどに加え、モネを画家へと導いたブータンも、サロンの常連だったにも関わらず、モネの依頼に応じて参加します。一方、サロンに認められ始めていたマネはドガやモネの再三の依頼を断固拒否しています。30人ほどの仲間と共に1874年、モネは後に「第一回印象派展」と呼ばれる展覧会を開催します。モネが出展した、ル・アーブルの海の夜明けを描いた「日の出」は酷評されますが、そのことが「印象派」という名前の由来にもなっています。

印象派展はその後も毎年のように開かれ、モネも次々に作品を出しました。モネの絵は少しずつですが、売れるようになりました。第二回目の印象派展に出した「日傘をさす女」には長男のジャンを連れてそよ風にヴェールの裾をなびかせながらモネを振り返るカミーユが描かれています。ところが、カミーユは1879年、32歳の若さで亡くなってしまいます。モネが39歳のときのことです。

日傘を差す女

晩年と「睡蓮」の制作

印象派展は1886年までの12年間に計8回開催されました。彼らの名が知られ始めるのと同時にサロンの権威は低下し、画商による個展も開かれるようになります。モネも1880年に最初の個展を開いています。絵が売れて、恵まれた生活ができるようになったモネは人口300人ほどの小さな村ジヴェルニーの川の畔に新しい家を建て、そこに日本風庭園を造成しました。そして52歳のとき子どもたちの面倒を見てくれていたアリスと幸せな結婚をします。この頃からモネは庭の池に咲いている睡蓮の花を描くようになりました。

68歳の頃から目が徐々に見えなくなりますが、それでもモネは絵を描き続けました。医者に絵を描くことを止められても手術して少し見えるようになると、また描き始めました。妻のアリスに続き、長男のジャンが亡くなり、ひとりぼっちになっても描くことを止めませんでした。懸命に12枚の「睡蓮」の絵を完成させたとき、モネは83歳になっていました。それから3年のち、モネは86歳で静にこの世を去ります。

睡蓮(国立西洋美術館)

モネについてもっと知る

画家の人生は、文章だけでなく作品と一緒に見ることでより深く理解できます。モネについてもっと知りたいという方には『おはなし名画シリーズ』の「マネとモネ」がお薦めです。『おはなし名画シリーズ』は「子どもが気軽に本物の芸術に触れられる環境を作りたい」という思いからできたシリーズで、名画とともに画家の生涯を辿ります。絵が大きくて色も鮮やかな専門家からも高い評価を得ています。日本図書館協会/全国学校図書館協議会の選定図書です。

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本体価格 ¥2,912(税別)
B4変型判 64ページ
作品点数 40点

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