3分で分かるルノワールの生涯

オーギュスト・ルノワールは1841年、フランス中部の町で生まれました。お父さんは洋服の仕立て屋を、お母さんは洋服を縫う仕事をしていました。一家の暮らしは貧しく、ルノワールは小学校を卒業すると陶器に絵を付ける職人の道に進みます。

絵が好きだったルノワールは21歳のときに仕事を辞めて画家になる決心をします。入学した国立美術学校で、画家を目指す沢山の友達と出会います。中でも仲が良かったのがモネです。二人は青空の下で風景や人物を描くことを好み、フォンテーヌの森やセーヌ河に出かけてキャンパスを並べて絵を描きました。「ラ・グルヌイエール」の競作で印象派を象徴する「色彩分割法」を生み出したのもこの頃のことです。チューブ入り絵の具の発明があったとはいえ、当時は画家が戸外で絵を描くのは珍しいことでした。

ポン・ヌフ

28歳のときに「日傘をさすリーズ」でサロンに入選しますが、その後は落選が続き、貧しい暮らしを続けます。1874年にはサロンに対抗して、仲間と一緒に、後に印象派展と呼ばれることになる展覧会を開催します。1877年には印象派最高傑作の一つと言われる「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」も出展しています。降り注ぐ光の中から人々の笑顔が浮かび上がってくるルノワールらしい絵です。

この頃、ルノワールは自分の絵を認めて支援してくれるシャルパンティエ夫妻の勧めもあり、サロンに復帰します。「シャルパンティエ夫人と子どもたち」(1878年)はサロンに入選し、多くの人の目に止まりました。ルノワールは人気の肖像画家となりますが、同時に印象派的手法で人物を描くことに限界も感じ、印象主義を離れて独自の道を歩み始めます。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット
ムーラン・ド・ラ・ギャレット

そんなルノワールに大きな幸せが訪れます。アリーヌとの出合いです。39歳のときに描いた「舟遊びをする人たちの昼食」には左端に犬を抱いたアリーヌの姿を見ることができます。ルノワールは40歳になると、生まれて初めて外国への旅行に出かけ、ルネッサンスからフランス古典主義の巨匠達の絵画を辿っています。そして、41歳のとき、アリーヌと幸せな結婚をします。アリーヌの踊る姿を描いた「田舎のダンス」にはルノワールの愛が溢れています。

その後、父親となったルノワールはアリーヌや息子の絵をはじめ、沢山の絵を描き続けました。ルノワールは次第に多くの人々から認められる画家になります。1892年、51歳のときに描いた「ピアノに寄る娘」は評判を呼び、フランス政府に買い取られました。若い頃好きだったロココ絵画、親友モネと追求した印象主義、その後に回帰した古典主義。ルノワールの全てが結集された絵です。

幸せな生活を続けていたルノワールは56歳のときに重い病気に罹ります。それでも、手首に筆を縛り付けて、78歳でこの世を去るまで懸命に絵を描き続けました。アリーヌもルノワールを最後まで見守り、愛し続けました。夢と希望と幸せを与えてくれる絵を沢山残した偉大な画家の幸せな生涯です。

ピアノによる娘たち(メトロポリタン美術館蔵)

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