3分で分かるドガの生涯

エドガー・ドガは1834年、パリに生まれました。お父さんは銀行経営者、お母さんは貴族の生まれでした。ドガは子どもの頃から無口で気難しく、怒りっぽい性格の持ち主でした。そのため、心を許し合える友達も少なく、一生を独身で過ごしました。

お父さんはドガに法律の勉強をして欲しいと思っていましたが、ドガの「どうしても画家になりたい」という気持ちにを知り、画家になるのを許してくれました。お父さんのお陰でお金の心配をすることなく、絵の勉強に打ち込みました。22歳から3年間、絵の勉強のためにイタリアにも行っています。

ベレッリ家の人々

ドガは美術学校の通いながら、パリのルーブル美術館でも絵の勉強を重ねました。ルーブル美術館でマネと知り合い、マネを通じて、モネやルノワールなどとも交流を深めていきます。ドガの勉強の仕方は優れた画家の作品を描き写すという方法でした。ドガの描き写した絵はまるで本物の絵の下書きのように見えるほど正確だったといいます。

大人になったドガは町で生活する人たちの様子を描くようになります。町の風景よりもそこで暮らす人々のほうに興味があったのです。バレエの稽古場や舞台、音楽会やサーカス、競馬場などに引き寄せられました。絵を描く前には粘土を作って形や動きを確認することもあったそうです。そうやって人や動物の一瞬の動きを捉えていたのです。
それでもドガは絵の出来に満足することはなく、一旦、売れた絵についても後で手直しすることがよくありました。ドガの絵を買った人はドガに持っていかれないように絵を鎖で壁に括り付けていたといいます。

ドガはその後もパリで生活する人々の姿を沢山描きました。洗濯をする人、帽子を選ぶ人、髪をとかす人。ドガはこうした人たちを何度も何度も観察して繰り返して下描きをしました。
「同じものを10回でも、100回でも描かなくてはならない」(ドガ)
画学生時代にフランス新古典主義の巨匠アングルに会ったドガは「ともかく線を沢山引くことだ」とアドバイスされ、感激したと言います。ドガは有名になってからもその言葉を忘れず、努力を続けていたのです。

ドガの目は50歳頃からだんだん見えなくなっていきました。それでもドガは負けません。記憶を手がかりに彫刻の制作に取り組んだのです。1881年の展覧会には彫刻「14歳の踊り子」を出展しています。踊り子の手を描くためだけにノート一冊全てを使うこともあったというドガの頭の中には踊り子の姿が完全に入っていたのでしょう。

1917年にドガは83才で亡くなりました。お葬式の日、生きているときは気難しくて怒りっぽかったドガの顔に優しく静かな微笑みが浮かんでいたそうです。

⇩併せてお読みください⇩
トップページ
おはなし名画シリーズの紹介記事
おはなし名画をよむまえにの紹介記事
商品一覧