自画像で辿るレンブラントの生涯(山田五郎先生のオトナの教養講座)

レンブレントは「テュルプ博士の解剖学講義」や「夜警」などの集団肖像画で大人気画家となりましたが、自画像を描き続けた画家としても有名です。残された自画像の数は約50点にものぼっています。山田五郎先生の自画像に焦点を当ててレンブラントの生涯を解説している動画がとても参考になりましたのでご紹介します。

このブログでも「3分で分かるレンブレントの生涯」という記事を書いていますが、自画像についての言及はしていなかったので、山田先生に倣って自画像と共に人生をレンブラントの人生を振り返ります。

若くから才能を認められていたレンブラントは1624年、18才の時に故郷のレイデンで仲間達とアトリエを開きます。24才のときにお父さんか亡くなったことなどをきっかけに、画家としての更なる飛躍を夢見てアムステルダムに出ています。

この頃に描かれたのが「東洋風の衣装に身をまとう自画像」です。山田五郎先生の動画でも「巨匠アピール」と言われていましたが、野心がほとばしる表情が印象的です。東洋風の衣装、プードル犬、羽の付いた帽子から自分を大きく見せようという思いが伝わってきます。若い頃には他にも沢山の自画像を描いています。

自画像はモデルが要らないので練習や技法の研究のために描くことが多いと山田五郎先生は仰っています。そういう側面もあるのですね。レンブラントはこの翌年、25才のときに「テュルプ博士の解剖学講義」を描いて大人気作家となっています。

東洋風の衣装に身をまとう自画像(25才)

28才のときにサスキアと結婚すると更に絵は売れるようになり、レンブラントは名誉とお金と幸せの全てを手に入れます。29才のときに自分とサスキアを描いた「居酒屋の放蕩息子」からはその勢いが伝わってきます。山田五郎先生曰く「イケイケ」の状態です。この頃は忙しくて自画像を描くことは少なくなっています。

ところが、幸せの絶頂期に悲劇が突然襲い掛かります。サスキアとの間に生まれた子どもが幼くして、相次いで亡くなってしまったのです。悲しみを紛らわそうとするかのようにレンブラントの金遣いはドンドン荒くなります。1639年、33才のときには大金を借りて大きな家を買っています。美術品も収集し贅沢な生活を送りますが、3人目の子どもに続き、1642年にはサスキアも病気で亡くなります。

レンブレントは嘆き悲しみながらも、この年に代表作の一つである大作「夜警」を描き上げますが、このころからレンブラントに人気には陰りが見え始めます(詳しくは「3分で分かるレンブレントの生涯」をご覧ください)。

居酒屋の放蕩息子(29才)

1652年にイギリスとの戦争が始まるとオランダの景気は悪くなり、レンブラントは1656年、50歳のときに破産します。1660年には家を手放し、1663年には長い間子どもの面倒を見てくれていたヘンドリッキェも亡くなってしまいます。

深い悲しみのなか、晩年には再び自画像を沢山描いています。「二つの円のある自画像」は59才のときの作品です。沈んだ表情の奥から暖かさも滲み出ているように感じます。

山田五郎先生も言われていますが、レンブラントの自画像からは人間性や個性が感じられます。それが普遍的な美しさを追求したイタリアのルネッサンスとの違いであり、レンブラントが近代芸術を先取りした画家と言われる理由の一つでもあります。

二つの円のある自画像(59才)

おはなし名画の「フェルメールとレンブレント」では17世紀のオランダを代表する二人の画家の人生と43点の名作を、大きくて美しい印刷で楽しみながら、当時のオランダ市民の生活についても知ることができます。

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