3分で分かるミレーの生涯

ジャン・フランソワ・ミレーは1814年10月、ノルマンディー地方の海の見える小さな村に9人兄弟の長男として生まれました。ミレーの家は農業を営んでいましたが、親戚には神父や学者が沢山いました。お父さんは教会の合唱隊の指揮をしており、一緒に暮らしていたおばあさんもとても信仰の篤い人でした。

絵を描くのが大好きだったミレーですが、21歳のときにお父さんが亡くなると、農業を継ぐために画家になるのを諦めようとしました。それを止めたのはおばあさんでした。
「お父さんはお前が自分の道を進むのを望んでいたよ。お父さんの願いは神様の思し召しです」
絵の勉強に打ち込んだミレーはパリの国立美術学校に入学することになります。22歳のときのことです。

ばれいしょ植え

その頃のパリは、凱旋門やシャンゼリゼ通りが出来たばかりで、通りは賑わい、馬車が行き交い、夜は遅くまでガス燈が輝いていました。しかし、狭い道路や汚い空気に、ノルマンディの自然に慣れたミレーはがっかりします。美術学校の勉強もつまらなく、毎日、美術館に通い、巨匠の模写を繰り返しました。食べることも満足にできない貧乏のなか、ミレーは1840年、26歳のときに、当時は絶対的な権威であったサロンに入賞して画家としての歩みを始めます。1845年に故郷に戻ったミレーは生涯、苦労を共にすることになるカトリーヌと巡り合います。その後、再びパリで暮らし始めますが、生活は相変わらず苦しいものでした。

1849年、ミレーはカトリーヌと3人の子どもたちを連れて、パリから南へ60キロのところにある農村でフォンテーヌブローの森につながるバルビゾンに移りました。この頃のバルビゾンにはパリから自然を描きにやってくる画家たちが後を絶ちませんでした。彼らは今では「バルビゾン派」の画家と呼ばれています。

この村で描いた「種をまく人」は1850年のサロンに入選しました。大またで歩きながら種をまこうとしている農夫を画面いっぱいに大きく描いたこの絵は、多くの人々を驚かせました。こんなに堂々とした無名の農民の姿を描いた画家は初めてだったのです。ゴッホもこの絵に感動して何度も模写をしています。

種をまく人

貧しさは相変わらずで、おばあさんやお母さんが亡くなったときも旅費がないために村に帰れませんでした。それでも、一心に制作に励んだミレーは徐々に農民を描く画家として知られるようになります。1857~9年に描かれた「落ち穂拾い」や「晩鐘」は今では世界中の人に知られる傑作ですが、貴族やお金持ちと農民や労働者が対立して政情が不安定なパリで裕福な暮らしを続けるサロンの審査員の中には農民や労働者を描くミレーを危険視する人たちもいました。

しかし、1863年に発表した「羊飼いの少女」をけなす人は誰もいませんでした。この頃のミレーの絵には動物を主役にしたものが多くなっています。人と動物と自然が調和した世界を夢見ていたのでしょう。絵が売れるようになり、人々から認められるようになったミレーですが、56才の頃から体を悪くしてしまいます。それでも懸命に絵を描き続け、59才のときに「糸つむぎ」を完成させますが、翌年に60才で亡くなっています。

羊飼いの少女

おはなし名画の「ミレーとコロー」ではミレーの作品26点、コローの作品16点のほか、テオドール・ルソーの作品1点やフォンテーヌブローの森の入り口に建つミレーとコローの記念碑の写真と共に大きくて綺麗な印刷で二人の人生を楽しめます。

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